患者1人だけのために設計された薬は、3年で完成した

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患者1人の変異に合わせて作られた薬

ALS(筋萎縮性側索硬化症)の男性1人に、その人の病気の原因になっている遺伝子を狙って設計した薬を投与したところ、1年後には神経の損傷を示す血液の値が正常範囲まで下がり、運動機能などをみる検査の点数も上がっていました。米メイヨー・クリニックなどのチームが、医学誌『Med』に報告した内容です。

最初に書いておくと、これは患者1人の報告です。偽薬を使った比較相手もいません。ALSの治療の話は期待が先に走りやすいので、この記事では「何が起きたか」と「そこから言えること・言えないこと」を分けて書きます。

ALSは、脳と脊髄(せきずい)にある運動ニューロン(筋肉を動かす指令を伝える神経細胞)が少しずつ死んでいく病気です。筋力が落ち、話しにくくなり、まひが広がっていきます。多くの人はやがて人工呼吸器が必要になり、診断後の平均余命は2〜5年ほどとされています。根本的な治療法はまだありません。

今回の男性は、ALSの中では進行が遅いタイプでした。職業は医師で、最初の投与から1年たった時点でも医師として働き続けていると報じられています。

CHCHD10型ALSとアンチセンス核酸の仕組み

男性のALSの原因は、CHCHD10 という遺伝子の変異です。論文の要旨によると、変異の種類は「R15L」。この遺伝子が作るタンパク質の15番目のアミノ酸が、別のものに置き換わっています。

CHCHD10 が作るタンパク質は、細胞のエネルギー工場であるミトコンドリアが正常に働くために必要なものです。変異があると異常なタンパク質がたまり、ミトコンドリアが傷んで、運動ニューロンの死につながると考えられています。ALS患者のうち原因遺伝子が分かっているのは全体の5〜10%ほどで、CHCHD10 の変異はその遺伝性ALSの中でも1%未満という珍しさです。

患者が少なすぎると、製薬会社が薬を開発しても採算が合いません。そこでメイヨー・クリニックの研究者が組んだ相手が、米国の非営利団体 n-Lorem(エヌ・ローレム)財団でした。ごく少数の患者しかいない遺伝性の病気に向けて、個別に薬を設計している団体です。

使われたのは、アンチセンス核酸(ASO)と呼ばれる種類の薬です。遺伝子(DNA)の情報は、いったんRNAという分子に写し取られ、そのRNAをもとにタンパク質が作られます。ASOは人工的に作った短い核酸の鎖で、狙ったRNAに貼り付いて分解させ、そこから作られるタンパク質の量を減らします。遺伝子そのものを書き換える遺伝子治療とは別物で、薬が体から抜ければ効果も薄れるため、続けて投与する前提の治療になります。

チームは CHCHD10 を狙うASOの候補を320種類以上作り、狙いの正確さと安全性をもとに1つに絞り込みました。動物での試験を経て、男性への投与が始まっています。

1年間の投与と検査値の変化

投与の方法は、腰から針を刺して、脊髄のまわりを満たしている液(髄液)に薬を入れる髄腔内(ずいくうない)注射です。ASOは血液から脳や脊髄に届きにくいので、神経の病気ではこの経路がよく使われます。

男性は2024年4月から2025年4月にかけて、まず50mgを3回、続いて75mgを3回、合計6回の投与を受けました。重い副作用は出ておらず、ALSでしばしば見られる認知機能の低下もなかったと報告されています。

効果の目安としてチームが追っていたのが、血液中のニューロフィラメント軽鎖(NfL)です。これは神経細胞の骨組みになっているタンパク質で、神経が壊れると血液に漏れ出てきます。値が高いほど神経の損傷が進んでいると読めるため、ALSの進み具合の指標として使われています。最初の投与から1年後、男性のNfLは正常とされる範囲まで下がっていました。

運動・呼吸・神経の働きを点数化する検査でも、1年後のスコアは上がっていました。呼吸と認知に関する別の検査の値は横ばいです。少しずつ悪くなっていくのがふつうの病気で、「横ばい」と「上昇」が並んだことになります。メイヨー・クリニック・ラボラトリーズの紹介記事には、男性の脚の筋力が戻ってきて、レッグプレスで扱える重さが80ポンドから120ポンド(約36kgから約54kg)に増えたという話も載っています。

「改善」の読み方と1例報告の限界

ここからが、この報告でいちばん気をつけて読みたいところです。

ALSの患者の中には、治療をしなくても一時的に症状が良くなる人がいます。つまり「投与後に良くなった」ことと「薬のおかげで良くなった」ことは、1人のデータだけでは切り分けられません。論文の共著者でメイヨー・クリニックの神経内科医、ビョルン・オスカーソン氏は、治療なしで改善が長く続くことはまれだとNatureの取材に答えています。NfLが正常範囲まで下がったという検査値も、薬が効いているという見方を後押しします。ただ、それでも比較対象のない1例であることは変わりません。

もうひとつ、男性はもともと進行の遅いタイプでした。1年という期間は、進行の遅いALSで薬の効果を見極めるには短めです。

研究に加わっていないシドニー大学の神経内科医スティーブ・ブチッチ氏は、結果を「わくわくする第一歩」と評価しつつ、進行を止められるのか、まして治せるのかを語るには早すぎると述べています。それを知るには、男性をあと2〜3年追いかけ、さらに多くの人で薬を試す必要があるという指摘です。NfLの低下については、脳の神経細胞が守られている可能性を示すものだとしています。

なお、米国の患者向けメディア ALS News Today の2025年4月の記事によると、同じ変異を持つ他の患者にも、n-Lorem財団とコロンビア大学の取り組みを通じてこのASOの投与が始まっています。その人たちの経過が報告されれば、今回の1例が偶然だったのかどうかを判断する材料が増えます。

開発期間3年が示すもの

効果の判定は先の話だとして、今回の報告ではっきり示されたことが2つあります。1人の患者の変異に合わせた薬を実際に作れたこと。そして、それを1年間、重い副作用なしに投与できたことです。

ALSでは、SOD1という比較的よく見つかる遺伝子の変異を狙ったASO「トフェルセン」が、2023年に米国で承認されています。ただ、こうした患者数の多い変異に向けたASOは、開発に10年以上かかってきました。今回の薬は、オスカーソン氏によれば3年です。診断後の余命が数年という病気で、その人の変異に合う薬を設計し、動物で試し、本人が生きているうちに投与までたどり着けた。氏はそこをいちばんの驚きとして挙げています。

クイーンズランド大学のフルール・ガートン氏(この研究には不参加)は、ASOによる治療がALSの多くの患者にとって今後の主流になるとみています。よくある変異にも、ごくまれな変異にも、その人にしかない変異にも、同じ設計の考え方で薬を作れるからです。

残っている課題は軽くありません。1人ひとりに薬を作る費用と体制を、非営利団体の力だけでどこまで広げられるのか。ALS患者の9割以上は原因遺伝子が特定されておらず、この方法がそのままでは使えません。今回の男性についても、効果が続くのかどうかは、これからの追跡で確かめられていきます。

「1人のための薬が3年で作られ、1年間安全に使えた。その人の検査値は良くなっていた」。現時点で言えるのはここまでで、その先はまだ書けません。

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