臓器移植を待つ患者の名前と生年月日が、暗号化されていないポケベルの電波に乗って飛んでいました。イギリスのNHS(国民保健サービス)で臓器移植の調整を担うNHS Blood and Transplant(NHSBT)が、BBCの調査報道を受けてこの事実を認め、謝罪しています。送られていたのは、患者の氏名・生年月日・提供される(または必要とされている)臓器の種類。移植チームへの緊急連絡として、日常的に送られていたものでした。
報道は2026年8月中旬。NHSBTはすでにポケベル経由での患者情報の送信を止め、英国の個人情報保護の監督機関であるICO(情報コミッショナー事務局)にデータ漏えいとして報告しています。

なぜ2026年の医療現場にポケベルが残っているのか
日本ではとうに姿を消したポケベルですが、イギリスの医療現場ではまだ現役です。理由ははっきりしています。構造が単純で壊れにくい。電池が数週間もつ。そして携帯の電波が届きにくい病院の建物の奥まで、確実にメッセージが届く。呼び出しを一斉に飛ばせる点も、当直医を急いで集めたい場面と相性がよいのです。
とはいえ、英国政府もこの状況を放置していたわけではありません。2019年2月、当時のハンコック保健相は、イングランドのNHSに対して非緊急連絡用のポケベルを2021年末までに廃止するよう指示しました。当時NHSが使っていたポケベルは約13万台。世界で使われているポケベルの1割以上がNHSにあり、維持費は年間660万ポンドにのぼるとされていました。ただしこの指示には例外があり、Wi-Fiが落ちたときなどの緊急バックアップ用は残してよいことになっていました。
それから7年。期限はとうに過ぎましたが、ポケベルは一部の現場で使われ続けています。そして今回、その上を患者情報が流れていたことが分かったわけです。
事故ではなく、最初から平文だった
ここがこの話の芯です。医療機関のセキュリティ事件というと、外部から侵入された、鍵が盗まれた、といった「事故」の形をとるのが普通です。今回は違います。誰も侵入していません。システムは設計どおりに動いていました。ポケベルの通信には、そもそも暗号化という仕組みがありません。電波は誰に向けても平文で飛び、受信できる機器を持っていれば誰でも読めます。「守られていなかった」のではなく、「守る仕組みが最初から無かった」のです。
ポケベルの電波を拾って読むこと自体は、数十年前から技術的に難しいことではありませんでした。いまは安価な受信機と、無料で公開されているデコード用ソフトがあれば足りるとされています(具体的な方法には触れません)。つまり、この通信網に個人情報を流すことの危うさは、ずっと前から知られていたことでした。
それなのに、なぜ流れていたのか。NHSBTで臓器移植部門を率いるアンソニー・クラークソン氏の説明が、この問題の根深さを物語っています。同氏は「データ漏えいであったことを受け入れる」としたうえで、こう述べました。メッセージが暗号化されていなかったことに驚いた、と。送っていた側自身が、平文で飛んでいることを知らなかったのです。なおNHSBTはポケベルそのものを運用していたわけではなく、ポケベルにもメッセージを送れる連絡システムを使っていた、という構図でした。移植は臓器の搬送も含めて時間との勝負なので、確実に届く連絡手段が必要だった、というのが使い続けた理由です。
誰かに読まれたのか——それは誰にも分からない
気になるのは、実際に第三者が読んだのかどうかです。現時点で、患者情報が部外者に取得されたという証拠は確認されていません。ただし安心できる話でもありません。ポケベルの通信網では、誰がメッセージを受信したかを追跡できないため、読まれたかどうか・何人分の情報が影響を受けたのかを、NHSBT自身も確かめようがないのです。「流出は確認されていない」ではなく「確認する手段が存在しない」。これも、暗号化の無い通信網の性質そのものです。
さらにBBCの調査では、患者情報を流していたのがNHSBTだけではないことも分かっています。10日間の調査期間中に、救急トラスト・病院・消防から数百件のメッセージがこの通信網を流れており、そこには精神保健関連の出動情報や投薬の内容、患者の名前が含まれていました。英国の保健省は、古い技術を使い続ける場合でも患者情報は安全に、データ保護の要件に沿って扱われるべきだとコメントしています。
NHSBTは謝罪し、ポケベルでの患者情報の送信を止め、内部調査を始めました。ただ、2021年末という期限が守られないまま5年近くが経ち、その間ずっと移植患者の情報が平文で飛んでいた、という事実は残ります。古い技術が現場に残るのには、単純さや電池のもち、電波の届きやすさといった、それなりの理由があります。問題は、残すと決めたなら「その上に何を乗せてよいか」を誰かが把握していなければならなかった、ということです。今回それが誰の目からも抜け落ちていたことを、BBCの調査が明らかにしました。
参考リンク
BBC: 元となった調査報道
Hackaday Links: August 16, 2026
英国政府(2019年): NHSのポケベル廃止方針の発表


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