オスのマッコウクジラだけが出す、謎の音があります。低くて金属的で、規則正しい。研究者はその響きを「牢屋の扉が閉まる音のようだ」と表現しています。
この音の存在は1980年代から知られていましたが、実際のところどれほど大きく、どこまで届くのかを正面から測った研究はありませんでした。デンマーク・オーフス大学のシモーヌ・ヴィデセン氏とペーター・テグルベア・マズセン氏らの国際チームが、セーシェル、スリランカ、ノルウェー、スコットランドの海で録音したこの音を分析した結果を、学術誌 Annals of the New York Academy of Sciences に発表しました(2026年6月18日オンライン公開)。測ってみたら、この音はとんでもない規模のものでした。
マッコウクジラが使い分ける3種類の音
マッコウクジラは、体長が最大で約18メートル。電車1両とほぼ同じ長さです。ハクジラ(歯のあるクジラ)の中では最大で、深さ3キロメートルまで潜ってダイオウイカなどを捕まえます。
光の届かない深海で獲物を見つけられるのは、音のおかげです。マッコウクジラはクリック音を出し、その反響から周囲の様子を読み取ります。エコーロケーション(反響定位)と呼ばれるはたらきで、コウモリが暗闇で飛べるのと同じ仕組みです。また、短いクリックをリズムよく連ねた「コーダ」という音のパターンを、仲間同士のやり取りに使うことも知られています。
そして3つ目が、今回の主役「スロークリック」です。報道では、その金属的な響きから「クラング(clang)」という通称でも呼ばれています。分かっている範囲では、この音を出すのはオスだけ。エコーロケーションのクリックやコーダと比べて、低く、そして間隔が長いのが特徴で、1回鳴らしてから次まで5〜10秒もあきます。40年前から知られていたのに、何のための音なのかは謎のままでした。そもそも、どれくらい大きい音なのかすら、きちんと測られていなかったのです。
測定でわかった音の強さと届く距離
研究チームは、セーシェル沖でスロークリックを出しているオスを見つけ、調査船から水深4メートルに水中マイク(ハイドロフォン)を吊るして、30分間で65回のクリックを記録しました。同時にレーザーでクジラまでの距離を測っておき、マイクに届いた音の強さから、クジラが発した瞬間の音の強さを逆算します。
結果は、200デシベル超。いちばん強いクリックは、距離1メートル換算で226デシベルに達していました。これは哺乳類の出す意思疎通のための音として、これまで測定された中で最大です。
ここで数字に但し書きが2つ必要です。まず、水中のデシベルは空気中と基準が違うので、この226デシベルをジェット機やロックコンサートの騒音と直接比べることはできません。ただ、水中音響の尺度で見ても、強力なソナーや海底の資源探査に使われる音源と同じレンジの強さで、それを動物が鼻で出していることになります。もうひとつ、「哺乳類最大」なのはあくまで意思疎通のための音に限った話です。同じマッコウクジラが獲物を探すときに出すエコーロケーションのクリックのほうが、音としてはさらに大きいことが分かっています。

では、この音はどこまで届くのか。チームは実測した音の強さをもとに、水温や深度、海底の条件を組み込んだモデルで音の伝わり方を計算しました。答えは、条件がよければ約70キロメートル。東京駅からなら熱海のあたりまで届く距離です。ひとつの生き物が「声」を届かせる範囲として、桁外れの広さといえます。ただしこれはモデルによる推定値で、実際に70キロ先のクジラが聞き取ったことを確かめたわけではありません。海の状態、とくに周囲の騒音しだいで、届く距離は大きく変わります。
5〜10秒間隔でも狂わないリズム
強さと並んでチームが驚いたのが、リズムの正確さです。4つの海域・6地点で集めた計1839回のスロークリックを解析したところ、クジラは5〜10秒という長い間隔をあけながら、ほとんどずれずに一定のリズムを刻んでいました。これは、リズムを持つことが知られている哺乳類や鳥の音と比べて、桁違いに遅いテンポです。
人間でも、手拍子や指パッチンでリズムを取ることはできます。でも1拍の間隔が5秒、10秒と長くなると、頭の中で数でも数えないかぎり、正確に保つのは難しくなります。筆頭著者のヴィデセン氏は、強さ・リズム・届く範囲という3つがそろって極端であることこそ、この音のすごさだと述べています。深い海に響く、巨大なメトロノームのような音なのです。
用途をめぐる仮説と今後の実験
これだけのことが分かっても、肝心の「何のための音か」は、まだ分かっていません。
有力な仮説はあります。マッコウクジラのオスは、世界最大の発音器官を持っています。巨大な鼻の複合体で、成熟したオスでは重さ5トン超、体長の3分の1を占めます。その中にある、車のタイヤほどの大きさの「音唇」と呼ばれる構造を打ち合わせて、クリック音を作ります。鼻が大きいオスほど低い音が出るので、低くて強いスロークリックは「自分は大きなオスだ」という、ごまかしのきかない自己紹介として機能しているのかもしれません。メスへのアピールなのか、他のオスへの「近寄るな」なのか、それとも別の何かなのか。研究チームは今後、水中スピーカーでスロークリックを再生してクジラの反応を見る実験を計画しています。
リズムの謎にも、面白い仮説が出ています。海底に向かって放った強い音は、エコーになって数秒後に返ってきます。クジラはこのエコーをストップウォッチ代わりにして、次のクリックのタイミングを計っているのではないか、という考えです。マズセン氏自身が「実際にそうしているかは分からない」と断っていますが、もし本当なら、クジラは海そのもの——海底までの距離と、音が往復する時間——を使って拍子を取っていることになります。
一方で、マズセン氏はこの音を「言語」と呼ぶことには釘を刺しています。これは間違いなくコミュニケーションだが、言語ではない。データが支える以上にクジラを人間に寄せて語るべきではない、という姿勢です。派手な数字の並ぶ研究ですが、言えることと言えないことの線引きは、はっきりしています。
気になる話もあります。70キロという到達距離は、静かな海での話です。近くを船が通れば海の中は騒がしくなり、この音の届く範囲は場合によっては数キロまで縮んでしまう可能性があると研究チームは指摘しています。5トンの鼻で放たれた深海の合図が誰に届き、何を引き起こしているのか。答えが出る前に、届く範囲のほうが狭まりつつあるのかもしれません。
出典
Videsen, S. K. A., Raimondi, T., Sørensen, P. M., et al. “Extreme Rhythm Keeping in Long-Range Slow Click Communication of Sperm Whales.” Annals of the New York Academy of Sciences, 1559(1), e70289 (2026). DOI: 10.1111/nyas.70289
オーフス大学プレスリリース(EurekAlert!): The world’s most powerful clickbait?
Live Science: ‘Like a jail door slamming’: Male sperm whales’ mysterious rhythmic clanging is the loudest communication sound of any animal


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