小脳をまねたAIチップ、「予想どおりを無視する」設計で計算を1万分の1に

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アメリカのノースウェスタン大学の研究チームが、脳の「小脳(しょうのう)」をまねた新しい電子素子を発表しました。心電図から不整脈(脈の乱れ)を見つけるテストでは、1回の心拍が終わるより前——心拍の5分の1ほどの時間——に異常を検出し、正確さは98%超。しかも、必要な計算の回数は、既存のシリコンベースの手法に比べて1万分の1で済んだといいます。

成果は2026年7月10日付で、科学誌Nature Communicationsに掲載されました。素子そのものの新しさに加えて、「AIの電力問題をどう解くか」という発想の部分が面白い研究です。

AIの電力問題と計算の無駄

AIが電気を大量に使う、という話はもう珍しくなくなりました。国際エネルギー機関(IEA)の報告書によると、世界のデータセンターの電力消費は2030年に約945テラワット時へと、2024年の倍以上に膨らむ見通しです。これは、いまの日本全体の年間電力消費をやや上回る規模にあたります。

この問題への取り組みは、モデルを軽くする、専用チップを作る、冷却を工夫するなど、いろいろな方向から進んでいます。今回の研究チームが注目したのは、もっと根っこにある無駄でした。研究を主導したマーク・ハーサム教授は、いまのAIについて「パターン認識は見事だが、何も変わっていないときでさえ、データの流れを分析し続けることに膨大な計算力を費やしている」と指摘します。つまり、変化のないデータを毎回まるごと計算し直していること自体が、電気を食う原因のひとつだというわけです。

記憶と演算を1つにするメムトランジスタ

もうひとつ、いまのコンピュータには構造的な弱点があります。記憶装置(メモリ)と演算装置(プロセッサ)が物理的に分かれていて、計算のたびにデータをその間で往復させていることです。この往復に時間と電力の多くが取られてしまう現象は「フォン・ノイマン・ボトルネック」と呼ばれ、長年の課題になっています。

ハーサム教授の研究室は、この往復をなくす道具として「メムトランジスタ」という素子を開発してきました。memory(記憶)とtransistor(演算を担う部品)を合わせた名前のとおり、記憶と演算を1つの素子の中で済ませる部品です。材料には、二硫化モリブデン(にりゅうかモリブデン)という、原子1個ぶんの薄さまで薄くできる半導体を使っています。

2023年には、このメムトランジスタをたった2個使うだけで、従来なら100個を超えるトランジスタが必要だったAIの分類タスクをこなせることを実証し、エネルギー消費を約100分の1に抑えています。今回の研究は、その次の一手にあたります。

まねる相手を大脳から小脳へ

脳をまねてコンピュータを省エネにする研究分野は「脳型コンピューティング」と呼ばれます。この分野で手本にされるのは、ふつう大脳です。考える・覚える・言葉を操るといった知的な処理を担う、いわば脳の「思考センター」で、AIに知能を持たせたいのだから大脳をまねる、というのは自然な発想です。

今回のチームは、あえて違う場所を選びました。小脳です。小脳は脳の後ろ下にある部分で、歩く、体勢を立て直す、とっさに手が出る——そんな「考える前に体が動く」種類の処理を担っています。ハーサム教授はその特長をこう説明します。「小脳は、予想どおりのことを無視して、予想外のことのために資源を取っておくのが得意だ。この方式が結果的に低い消費エネルギーにつながり、そこで桁違いの改善が得られる」。

つまり、賢く考える部分ではなく、「変化がなければ何もしない」という反射の仕組みをまねたのです。研究チームには神経生物学者のインディラ・ラマン教授も加わっており、小脳の神経回路を電子回路として本気で再現しにいった研究だといえます。

興奮と抑制の綱引きで予想外を見抜く仕組み

小脳の神経回路には、競い合う2種類の信号があります。神経の反応を強める「興奮性」の信号と、反応を抑える「抑制性」の信号です。ふだんはこの2つが釣り合っていて、脳は静かなまま。ところが予想外のことが起きると、釣り合いが一瞬崩れ、それが「反応せよ」という合図になります。

研究チームは、この綱引きをメムトランジスタの上で再現しました。素子は2つのモードで動きます。片方のモードでは興奮性のシナプス(神経どうしのつなぎ目)のように、信号が続くほどじわじわ応答を強めます。もう片方のモードでは抑制性のシナプスのように、最初に強く反応してすぐ弱まります。この正反対のふるまいを組み合わせることで、「いつもどおり」と「本当に新しい出来事」を区別できるようになりました。

仕掛けは、素子の構造にあります。片方の電極を、薄い絶縁層を挟んで半導体に部分的に重ねるという、左右非対称な作りにしたのです。この一見小さな設計変更で電気の流れ方が根本的に変わり、かける電圧の向きを逆にするだけで、興奮性モードと抑制性モードを切り替えられるようになりました。1つの素子が、電圧の向きひとつで正反対の性格を持てる——ここが素子としての新しさです。

心電図テストでの成績

実力を試すために、研究チームは正常な心拍と不整脈の両方を含む心電図の記録をこの素子に読ませました。素子は正常な心拍を「予想どおり」として次々に無視し、不整脈が現れた瞬間だけ反応。冒頭で触れたとおり、心拍の5分の1ほどの時間、ミリ秒単位で異常を検出し、正確さは98%を超えました。

ハーサム教授は「不整脈を、その心拍が終わるより前に検出した。従来のAIの2倍以上速い」と述べています。そして必要だった演算の回数は、既存のシリコンベースの手法の1万分の1。正常な心拍をまじめに全部分析しなかったからこそ、この数字になったわけです。

想定される使い道と今後

この「予想外だけに反応する」性質が生きるのは、常時監視が必要な場面です。研究チームは、身につける心臓モニター、自動運転車、ロボット、サイバー攻撃の兆候を見張るセキュリティシステムなどを挙げています。どれも、ほとんどの時間は何も起きておらず、それでも異変の瞬間は一瞬で捉えたい、という共通点があります。巨大なデータセンターに頼らず、機器の手元で省エネに動く「常時オン」のAIへの道筋になる、というのがチームの見立てです。

今後の課題としてハーサム教授が挙げているのが、小脳の「学習」の再現です。予想外だった出来事も、何度も繰り返されれば脳はしだいに慣れて、新しい出来事として扱わなくなります。「小脳の神経回路の一部は実証できたが、まだ再現できていない部分がある。この道をさらに進んで、この複雑なシステムをもっと模倣していきたい」と教授は話しています。

解釈上の留意点

数字が強い研究なので、読み取る範囲には注意が要ります。まず「計算量1万分の1」は、心電図から不整脈を検出するという特定の課題で、既存のシリコンベースの手法と比べた数字です。AIのあらゆる処理が1万分の1になる、という話ではありません。「2倍以上速い」「98%超」も同じテストでの成績です。

また、減ったのは「演算の回数」であって、消費電力そのものの実測値は公表資料には示されていません。計算が減れば電力も減る方向に働きますが、どれだけ減るかは実装しだいです。そして今回の成果は素子と小規模な回路での実証、つまり研究段階のもので、「1万分の1の電力で動くAIチップが製品になった」わけではありません。二硫化モリブデンは量産技術がまだ発展途上の材料で、いまのシリコンチップの規模で作れるようになるまでには、製造面のハードルが残っています。

それでも、「予想どおりを無視する」という一言で省エネの理屈がすっと腑に落ちる、発想の筋のよい研究です。AIの電力問題というと発電や冷却の話になりがちですが、そもそも計算しない、という解き方もある——小脳が何億年も前からやってきたことを、半導体がようやくまね始めたところです。

出典

ノースウェスタン大学のプレスリリース:AI gets a cerebellum(Northwestern Now、2026年7月10日)

元論文:Cerebellum-inspired memtransistors enable emergent differentiation for hardware-efficient novelty detection(Nature Communications、2026年7月10日)(オープンアクセスで全文を読めます)

紹介記事:Live Science(2026年8月11日)

データセンターの電力予測:IEA「Energy and AI」報告書

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