反物質を、トラックの荷台に積んで運ぶ。SF映画に出てきそうな話が、2026年3月に実際に行われました。スイスのジュネーブ郊外にある研究機関CERN(セルン、欧州合同原子核研究機関)が、ごく微量の反物質を車に載せて構内を走らせ、無事に元の場所へ戻すことに成功したのです。反物質を“運搬する”こと自体が、世界で初めての試みでした。
運搬に使われたのは、特別に作られた大きな装置とトラックです。その様子が次の1枚です。

上の画像のように、人の背丈ほどある装置を慎重に積み込んでの移動です。一見すると引っ越し作業のようにも見えますが、中に入っているのは世界でもっともあつかいにくい物質のひとつ。なぜこれが大ごとなのか、順番に見ていきます。
反物質という存在
反物質は、ふだん私たちのまわりにある物質の“鏡写し”のような存在です。電気のプラス・マイナスや磁石としての性質が、ちょうど逆さまになっています。たとえば陽子(プロトン=原子の中心にあるプラスの粒)に対して、反陽子(はんようし)はそっくりだけれど電気がマイナス、という具合です。
やっかいなのは、物質と反物質が触れ合うと、その瞬間に両方とも消えてしまうこと。消えるときには光やエネルギーが出ます。これを対消滅(たいしょうめつ)と呼びます。空気の粒にも、容器の壁にも触れさせられない——だから反物質は、世界一あつかいにくい物質とも言われます。
ビッグバン(宇宙のはじまり)では、物質と反物質が同じ量だけ生まれたと考えられています。それなのに、いまの宇宙は物質ばかりでできていて、反物質はほとんど見当たりません。「なぜ物質だけが生き残ったのか」は、物理学に残された大きな謎のひとつです。反物質をくわしく調べることは、この謎に近づく手がかりになります。
今回のできごと
今回の主役は、CERNの「BASE(ベース)」という実験チームです。反陽子をあつかう研究で知られていて、反陽子を1年以上も閉じ込めておいた実績を持っています。
2026年3月24日、このチームは反陽子92個を専用の“かご”にためこみ、それを実験装置から切り離してトラックに積み、CERNの構内をおよそ10km走らせました。時間にしておよそ30分、最高速度は時速47kmほど。街なかを流すくらいの、ゆっくりした速さで慎重に運んだことがうかがえます。そして戻ってきたあと、ふたたび実験装置につないで運転を続けられました。つまり、反物質は輸送に耐えた、というわけです。
運んだ量はごくわずかです。反陽子92個というのは、目に見えるどころか、重さとしてはほぼ無いに等しい量。これまで世界中で作られた反物質をぜんぶ集めても、数十ナノグラム(ちりひとつにも満たない量)にしかならないと言われます。今回はそのなかでも、ほんのひとつまみでした。
輸送を支えた装置
反物質を運ぶ“かご”の役目を果たしたのが、BASE-STEP(ベース・ステップ)と名づけられた持ち運びできる装置です。中身はペニングトラップという仕組みで、電気と磁石の力を使い、粒子を容器の壁に触れさせないまま空中に浮かせて閉じ込めておきます。
この装置には、強い磁力をつくるための超伝導磁石(とても低い温度にすると電気抵抗がなくなる磁石)が入っていて、これを8.2ケルビン(およそマイナス265℃)という、絶対零度(−273℃)にあと数度というところまで冷やし続ける必要があります。装置全体は高さ180cmほど、重さは約800kg——小型の自動車1台ぶんくらいの重さです。これだけのものを、振動でこわさないよう静かに運んだことになります。
研究所の外をめざす理由
反陽子を作れる場所は、いまのところCERNの“反物質工場”だけです。ただ、ここには粒子を加速させる大きな装置がいくつもあって、その影響で磁場がわずかに揺らいでしまいます。とても精密な測定をしたいときには、これが邪魔になります。
そこで研究チームは、反陽子を“静かな”別の研究室まで運び出すことを考えました。揺らぎの少ない環境で測れば、これまでより100倍ほども精密に反陽子を調べられる見込みだといいます。物質と反物質をうんと細かく比べていけば、わずかな違いが見つかるかもしれない——それが、宇宙の謎を解く手がかりになる、という考えです。
これからの見通し
今回はあくまで、CERNの構内をぐるりと回る“予行演習”でした。研究チームが見すえているのは、もっと遠くへの輸送です。ドイツのハインリッヒ・ハイネ大学(デュッセルドルフ)にある専用の研究室まで、約700kmを運ぶ計画があります。東京から西へ700kmといえば、ざっくり広島の手前あたりまで、というくらいの距離感です。
車でおよそ8時間以上かかる道のりのあいだ、装置を8.2ケルビンより低い温度に保ち続けなければなりません。そのため、なくなってしまう液体ヘリウムだけに頼るのではなく、トラックに発電機を積んで冷却装置を動かし続ける方法などが検討されています。実現は2029年ごろを目標にしているとされています。
受け止め方の注意
「反物質を運ぶ」と聞くと身がまえそうになりますが、今回運ばれた量は、危険を心配するようなものではありません。先に触れたとおり、反物質はこれまで世界中の研究でほんのわずかしか作られておらず、今回の92個はそのなかでもごく一部です。走行も、CERNの管理された敷地のなかで行われた実験段階のものです。
また、これは「できることが確かめられた」という第一歩であって、すべてが解決したわけではありません。いちばんの難関は、運んだ先で反陽子を消さずに別の装置へ移し替えること。ここが今後の課題として残っています。新しい技術にありがちなことですが、ここから実用までには、まだいくつもの段階が控えています。
出典・もっと知りたい人へ
この記事は、CERNの公式発表や各種報道をもとにまとめました。くわしく知りたい人は、下のリンクからどうぞ(いずれも新しいタブで開きます)。


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