脳だけが腐らずに残る理由は「腐敗が自分で自分を止めるから」だった

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数千年前の墓を掘ると、骨だけになった遺体のなかに、脳だけが残っていることがあります。皮膚も内臓も筋肉も土に還っているのに、死んだあといちばん早く溶けてなくなるはずの脳が、縮んだ塊としてそこにある。長いあいだ説明のつかなかったこの現象に、オックスフォード大学で古生物学を研究するアレクサンドラ・モートン=ヘイワード氏らのチームが、化学の側から答えを出しました。

脳を残していたのは、腐敗を食い止める何かではありませんでした。腐敗そのものです。分解の反応が進もうとするたびに、その反応でできた分子どうしが結びついて固まり、先へ進む道をふさいでしまう。腐らせる力が、途中から残す力に変わっていた、ということになります。

考古学の記録に積み上がった4400例

この現象は、めったに起きない例外というわけでもありません。同じチームが2024年にまとめた集計によると、17世紀半ば以降に掘り出された保存状態のよい人間の脳は4400例を超えます。年代の幅はおよそ1万2000年ぶん。氷期の終わりごろのものまで含まれます。

そのうち1300例以上は、ほかの軟らかい組織がすべて失われ、骨と脳だけが残っていた例でした。全体のおよそ3分の1にあたります。

遺体が腐らずに残る道すじは、これまでにもいくつか知られていました。脱水、凍結、鹸化(けんか。体の脂肪が石けんのような物質に変わる、いわゆる死蝋)、そして鞣(なめ)し。ただしこの4つは、脳だけでなく皮膚や内臓もいっしょに残すのがふつうです。骨と脳だけ、という組み合わせは、どれにも当てはまりません。

説明のつかない脳の多くは、水を含んだ酸素の乏しい地面から出ています。川底や湖岸、水没した洞窟、沈没船。イギリス・ヨークで見つかった約2600年前の「ヘズリントンの脳」も、水の溜まった穴の中から頭骨ごと出てきました。水はものを腐らせる側の存在で、ふつうは保存と結びつきません。それなのに脳だけが選ばれたように残る——この選り好みの理由が、長らく分からないままでした。

ネズミの死体を埋めた6か月の追跡

チームが取ったのは、実際に埋めて確かめるという方法でした。ネズミの死体72体を、水と酸素の条件を4通りに変えた環境に埋め、半年にわたって様子を追います。

掘り出したのは、24時間後、72時間後、1週間後、6週間後、3か月後、6か月後の6回。そのつど脳を取り出し、高分解能の質量分析(しつりょうぶんせき。分子の重さを精密に測り、何がどれだけあるかを調べる手法)にかけました。どのペプチド(タンパク質が切れた断片)が残り、どれが消えたのか。生き残ったほうに、どんな化学的な傷が付いているのか。それを一つひとつ記録していきます。

こうして得られたタンパク質の壊れ方の軌跡は、126万通りを超えました。ここまで数がそろうと、どの条件で、いつ、道が分かれたのかを傾向として読み取れるようになります。

結果を左右した酸素の量

意外だったのは、はじめのうち4つの条件でほとんど差が出なかったことです。埋めた直後の数日から数週間、分解の進み方はどれも似たようなものでした。

違いが出はじめたのはそのあとです。数週間を過ぎたあたりから、酸素の量が結果を決めるようになりました。空気に触れやすい条件では、タンパク質は次々に壊れて消えていきます。一方、水に浸かって酸素の乏しい条件では、一部のペプチドがかたい構造をつくり、そこから先の分解に耐えるようになっていました。同じ死体を同じ期間埋めただけで、行き先が正反対に分かれたことになります。

分解反応が生む「溶接」

この分かれ目をつくっていたのが、フリーラジカルでした。電子が1個だけ余っていて、まわりの分子と手当たり次第に反応したがる、非常に不安定な分子のことです。

酸素がたっぷりある環境では、フリーラジカルがタンパク質を攻撃し、そこで生まれた新しいラジカルがまた隣を攻撃する、という連鎖が起きます。ドミノ倒しのように反応が伝わっていき、タンパク質の構造は短い時間でばらばらになります。

ところが酸素が乏しいと、この連鎖を続けるだけの酸素が足りません。反応そのものは起きるのですが、次へ次へと伝わっていけず、その場で終わります。行き場をなくした途中生成物は、すぐ隣にあるタンパク質の一部と手を結び、共有結合でつながってしまう。これが架橋(かきょう)です。

架橋が起きると、ばらばらのかけらだったものが、かたくて水に溶けない塊に変わります。研究チームはこれを、壊れたものどうしを溶接してしまうようなものだと表現しています。分解の産物が、分解に強い材料に化けるわけです。つまり腐敗は、進もうとするたびに自分の足元を固めてしまう。それが、脳だけが残る理由でした。

脳に固有の化学的条件

では、なぜこれが脳で起きやすいのか。研究チームによれば、脳という組織は、この局所的な反応が成立するのにちょうどよい性質をいくつも兼ね備えているのだそうです。

ひとつは金属です。脳には鉄をはじめとする金属が多く含まれていて、これがフリーラジカルの反応を後押しします。もうひとつは膜。脳は細胞の膜がぎっしり詰まった組織で、ラジカルはその膜のまわりに溜まりやすくなります。さらに、酸化還元しやすいアミノ酸——電子をやりとりしてラジカルを受け止め、そのまま架橋の相手にもなれるもの——を多く抱えています。

加えて、頭骨という壁もあります。脳は硬い骨に囲まれているぶん、体のほかの部分にくらべて水や酸素の出入りが制限されます。反応が広い範囲に散らばらず、狭い場所で完結しやすい条件が、もともと用意されていたことになります。

神経変性疾患との思わぬ重なり

この研究には、考古学の外まで伸びる話もあります。分解に耐えて残ったペプチドの化学的な特徴——シート状に規則正しく並んだ構造(βシート)や、芳香族と呼ばれる種類のアミノ酸に残った酸化の跡——が、アルツハイマー病などの神経変性疾患で見られるタンパク質の変化とよく似ていた、というのです。

死んだあとの脳で進む反応と、生きている脳で進む病気の変化が、分子の姿だけを見ると重なって見える。研究チームは、老化や神経変性にかかわる酸化のダメージと、死後の保存の化学が地続きなのではないかとみています。もしそうなら、古い墓から出てきた脳が、病気の進み方をたどる手がかりになる可能性もあります。

ただし現時点では、あくまで「似ている」という段階です。どこまで同じ仕組みなのかは、これから確かめることになります。

解釈上の留意点

いちばん押さえておきたいのは、今回の実験がネズミで行われたものだという点です。人間の脳で直接確かめた研究ではありません。「人の脳が腐らない理由が解明された」と読むと、研究が言っている範囲を超えてしまいます。体の大きさも頭骨の厚みも埋まる環境も違うので、同じ道すじが人でそのまま成り立つかどうかは、別に確かめる必要があります。

実験そのものにも制約があります。埋める前に死体を凍らせている点や、埋めた土の中の酸素濃度を実際に測っていない点は、論文自身が限界として挙げているものです。

研究に加わっていないブリストル大学の有機地球化学者リチャード・エヴァーシェッド氏は、分析の網羅性を評価したうえで、ほかの臓器や筋肉とも比べる必要があると指摘しています。脳で起きていたことが本当に脳だけの特別な現象なのかは、比較する相手がないと言い切れないためです。

なお、この論文は査読を経て学術誌に掲載されたもので、公開は2026年6月19日です。

出典

Alexandra Morton-Hayward et al. “Molecular Solution to the Paradox of Ancient Brain Preservation.” Journal of Proteome Research, 2026年。
論文(DOI: 10.1021/acs.jproteome.6c00200)

4400例という集計のもとになった2024年の論文(オープンアクセスで全文が読めます)。
Human brains preserve in diverse environments for at least 12,000 years(Proceedings of the Royal Society B)

解説記事(Live Science)

※Live Scienceの記事では、筆頭著者がアレクサンドラ・セヴィア(Alexandra Seviour)として紹介されています。論文の著者表記はアレクサンドラ・モートン=ヘイワード(Alexandra Morton-Hayward)で、この記事では論文の表記に合わせました。

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