脳のシナプス(神経細胞どうしのつなぎ目)が半分以上消えたのに、記憶はまるごと残っていた——そんな実験結果が報告されました。沖縄科学技術大学院大学(OIST)と筑波大学などの研究チームが、マウスを人工的に「冬眠」させる実験で確かめたもので、論文は2026年8月13日(日本時間14日)付の米科学誌『Science』に掲載されています。
「記憶は、神経細胞どうしのつながりが強くなることで保存される」。教科書にも載っているこの考え方に対して、「長く記憶を保つうえで本当に大事なのは、つながりの強さよりも配置なのではないか」という新しい見方を示した研究です。

記憶と「つながりの強さ」の定説
まず、これまでの定説を確認しておきます。神経科学には「一緒に発火する神経細胞は、一緒に配線される」という有名な言い回しがあります。ある経験をしたとき、同時に活動した神経細胞どうしのつなぎ目——シナプス——では、信号のやりとりが繰り返されるうちに伝達の効率が上がっていきます。送る側はより多くの信号物質を出すようになり、受ける側は受信用の突起(樹状突起スパイン)を大きくして感度を高める。この現象は長期増強(LTP)と呼ばれ、「記憶が脳に刻まれる仕組み」の本命として、長年の研究で支持されてきました。
つまり定説では、記憶の実体は「強くなった特定のつながりの集まり」です。よく使う道が太くなって残るように、強化されたシナプスのネットワークが記憶を支えている、というイメージです。
定説に生じていたほころび
ところが近年、この見方だけでは説明しづらい観察がいくつも報告されるようになりました。ひとつの記憶に対応する神経細胞のつながりを追いかけると、その顔ぶれが数日単位でどんどん入れ替わっていくのです。記憶をつくったときに強化されたはずのシナプスが失われても、記憶そのものは残っている。「強いつながり=記憶」だとすると、つながりが入れ替わっても記憶が消えないのはなぜなのか、という謎が残っていました。
もうひとつのヒントが、冬眠する動物たちです。アルプスマーモットやジリスなどは、冬眠中に脳が縮み、シナプスが大幅に刈り込まれることが知られています。脳の活動を極限まで落として省エネするための仕組みと考えられていますが、不思議なことに、冬眠から覚めた動物は仲間の顔やエサの場所といった冬眠前の記憶をちゃんと覚えているという報告があります。つながりが大きく失われても消えない記憶——ここに、記憶の維持に本当に必要なものを探る手がかりがありそうだ、と研究チームは考えました。
人工冬眠が起こした大規模な刈り込み
実験の流れはこうです。まずマウスに2種類のことを覚えさせます。ひとつは、ある部屋と足への弱い電気刺激を結びつける学習。もうひとつは、迷路のどこに砂糖のごほうびが置いてあるかの学習です。
そのうえで、マウスを人工的な冬眠状態に入れました。マウスはもともと本格的な冬眠をしない動物ですが、筑波大学の櫻井武教授らが開発した、脳内の特定の神経細胞群を刺激して冬眠のような低代謝状態を誘導する技術を使うことで、狙ったタイミングで「冬眠」させることができます。医療で使われる低体温療法とは別物で、動物が自然に行う休眠のスイッチを人為的に入れる、というイメージに近い手法です。
冬眠に入ったマウスの脳では、予想を超える速さで変化が始まりました。記憶の中枢である海馬を観察すると、スイッチが入ってからわずか30分でシナプスの刈り込みが始まり、24時間後には半分以上のシナプスが消えていたのです。研究を率いた田中和正・OIST准教授も、ある程度の再編が起きることは予想していたものの、その規模は想定をはるかに超えていたと述べています。冬眠は2日間続きました。
半分消えても保たれていた記憶
普通に考えれば、これだけシナプスが失われたら記憶も一緒に消えそうなものです。ところが、冬眠から覚めたマウスは、電気刺激を受けた部屋に入れるとすくんで動かなくなり、迷路では以前と同じようにごほうびの場所へたどり着きました。どちらの記憶も保たれていたのです。冬眠したマウスとしていないマウスを比べても、行動にまったく差はなかったといいます。
では、記憶はどこに残っていたのか。答えを絞り込むために、チームはもう1つの比較実験を行いました。別のマウスたちを長時間の麻酔にかけ、あわせてシナプスの強化を妨げる分子を投与したのです。この処置でも冬眠と同じように大量のシナプスが失われましたが、こちらのマウスは記憶を失っていました。同じ「シナプスの大量喪失」なのに、片方は記憶が残り、片方は消える。両者の脳の違いに、記憶の正体を探る鍵があることになります。
生き残っていた「かたまり」の構造
両方の脳を詳しく見比べて浮かび上がったのが、シナプスの「かたまり方」でした。冬眠したマウスの海馬では、大量の刈り込みをくぐり抜けて選択的に生き残ったつながりのパターンがあったのです。
ひとつは、1本の軸索(信号を送る側の神経線維)が、周囲の複数の神経細胞へ枝分かれしてつながるハブのような構造。もうひとつは、信号を受け取る側の樹状突起スパインが近い場所に寄り集まり、複数の細胞からの入力をまとめて受け取っているクラスター(かたまり)構造です。記憶の形成に関わったシナプスがつくるこうした配置は「エングラムシナプス」とも呼ばれ、冬眠中もほぼそのまま保たれていました。一方、記憶が消えた麻酔グループの脳では、この構造が壊れていました。
興味深いことに、個々のスパインの大きさ——つまり、つながりの「強さ」の目印——は、記憶が残るかどうかと関係がなかったそうです。個別のシナプスがどれだけ太いかではなく、ネットワーク全体の中でつながりがどう配置されているか。田中准教授は、この「かたち」の構造のほうが記憶の維持には重要らしい、と整理しています。
LTP仮説との関係と残された課題
誤解のないように書いておくと、この研究は「LTPの考え方が間違っていた」と主張しているわけではありません。田中准教授自身、今回の結果がLTP仮説を否定するものだとは考えていないと明言しています。新しい記憶を「つくる」段階でLTPが重要な役割を果たすことは、数多くの研究が支持しています。今回の発見が示唆するのは、いったんできた記憶を「保ち続ける」段階では、個々のつながりの強さとは別の要素——配置のパターン——が効いているらしい、ということです。つくる仕組みと守る仕組みが別々にある、と考えると腑に落ちます。
もちろん、分かっていないことも多く残っています。なぜ脳は、大量のシナプスを刈り込みながら、このかたまり構造だけを選んで残せるのか。その選別はどんな分子の働きで実現されているのか。チームは現在、このクラスターの分子レベルでの特徴づけを進めており、将来的には構造を人為的に操作して記憶がどうなるかを確かめる実験も視野に入れているそうです。田中准教授は、記憶の物理的な痕跡が大きく変わっても記憶そのものが失われない謎に対して、この研究で新しい扉をひとつ開けた、と話しています。
なお、この結果はマウスの海馬で確かめられたもので、人間の記憶にそのまま当てはまるかはまだ分かりません。「人間も冬眠すれば記憶が保たれる」といった話でもありません。それでも、「記憶とは何がどう残ることなのか」という根本の問いに、強さではなく配置という新しい答えの候補を差し出した点で、しばらく引用され続ける研究になりそうです。


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