クロアチア東部の都市オシエクで、ローマ時代の深い井戸から少なくとも43体分の人骨が見つかっています。発掘そのものは2008年。それから18年たった2026年8月、ベルリンで開かれた第25回ヨーロッパ古病理学会の年次大会で、この骨たちが「誰で、なぜ死んだのか」を読み解いた研究が発表されました。
発表したのは、ザグレブの考古学研究所の生物考古学者マリオ・ノヴァク氏のチームです。なお、これは学会発表であって、査読(専門家による検証)を経た論文としてはまだ出版されていません。以下の内容は「そういう発表があった」段階の話として読んでください。
帝国の前線都市ムルサと遺体の投げ込まれた井戸
現在のオシエクは、ローマ時代には「ムルサ」という名前の都市でした。西暦133年にハドリアヌス帝が建設した街で、当時はパンノニア属州の一部。ドナウ川沿いに置かれた帝国の防衛線を支える、軍事的に重要な拠点だったといいます。古代都市の大部分は、いまも現代のオシエクの街の下に眠ったままです。
この街には、使われなくなった井戸がいくつも残っていました。ノヴァク氏の言い方がなかなか率直です。「彼らは涸れた井戸を、人を投げ込むためだけに使っていた——戦いで死んだ人か、疫病で死んだ人を」。掘り抜いた井戸が涸れたら、今度は遺体の処分場所になる。そういう使われ方をした井戸が、この街にはひとつやふたつではないのだそうです。
実際、ノヴァク氏のチームは以前、この場所で人骨のつまった井戸を2つ見つけています。中身は若い男性ばかりで、骨には死の間際についたとみられる激しい傷が残っていました。西暦260年、この街を舞台に「ムルサの戦い」と呼ばれる戦闘があったことが知られており、2つの井戸の男性たちはその戦いで命を落とした兵士だろうと考えられました。
戦いのあった街の、遺体を投げ込むための井戸。今回の43体も、てっきり同じような戦死者だろう——そう思いたくなるところです。
戦死者の井戸との決定的な違い
ところが、今回分析された井戸の中身は、その2つとまるで違っていました。
まず、若い男性ばかりではありません。少なくとも43体の内訳は、大人が27体、子どもや若年者が16体。男女の両方がいて、年齢層もばらばらです。そして、死の間際についた傷を持つ骨が、ひとつも見つかりませんでした。
骨に残っていたのは、もっと日常的な痕跡です。背骨の変形性関節症、虫歯、成長期のストレスを示すサイン。治って久しい古傷はありましたが、命を奪うような暴力の跡ではありません。結核や壊血病が疑われる例も数体分ありました。どれも「この人たちが普段どんな体で暮らしていたか」を語る痕跡であって、「なぜ一度に死んだのか」の答えにはなりません。
ノヴァク氏は発表でこう述べています。「これは民間人集団の典型的な人口構成の断面と言えます。戦闘に関係した2つの集団埋葬とは、似ても似つきません」。
つまり、戦いの証拠が「無い」のです。若い男性への偏りが無い。武器の傷が無い。あるのは、街に暮らしていた老若男女がそのまま切り取られたような顔ぶれだけ。戦死者の井戸という比較対象がすぐ隣にあるからこそ、この「無さ」がくっきり浮かび上がります。では、傷ひとつなく死んだ大人と子どもが43人、なぜまとめて井戸に投げ込まれたのか。ここで浮かんでくるのが、疫病という答えでした。

浮かび上がる「キプリアヌスの疫病」
歴史の記録をたどると、3世紀半ばのローマ帝国では、ちょうど大きな疫病が猛威をふるっていました。「キプリアヌスの疫病」と呼ばれるもので、当時のカルタゴの司教キプリアヌスがその惨状を書き残したことから、この名がついています。
この疫病は、まずドナウ川方面に駐屯するローマ軍の部隊を襲い、その後、帝国のあちこちで大量死を引き起こしたとされます。ムルサはまさにそのドナウ防衛線の街です。時代も場所も、話が合いすぎるほど合っています。ノヴァク氏のチームの作業仮説は、この43人がキプリアヌスの疫病の犠牲者ではないか、というものです。
研究に加わっていない外部の専門家も、この発見自体には注目しています。スウェーデン・ウプサラ大学の生物人類学者パトリック・ランドルフ=クイニー氏は「とても興味深いデータです。これは普通の集団墓ではなく、遺体がその場にあった既存の井戸に次々と投げ込まれたものです」と述べています。きちんと墓を掘る余裕すらなかったらしい、という状況そのものが、何か切迫した事態を物語っているわけです。
状況証拠にとどまる現段階
ただし、ここまでの話はすべて状況証拠です。骨から疫病の病原体そのものが検出されたわけではありません。「戦いではなさそうだ」「時代と場所が疫病の記録と合う」という消去法と符合の積み重ねであって、直接の証拠はまだ出ていません。ノヴァク氏自身も「この発見を位置づけるには、より確かなデータが必要なのは明らかです」と認めています。
実は、発表者たちの学会抄録を読むと、疫病とすら言い切っていません。そこに書かれているのは「疫病か、何らかの自然災害の犠牲者とみられる」という表現です。傷なく大勢が一度に死ぬ原因は、病気だけとは限らないからです。
さらに言えば、キプリアヌスの疫病そのものの正体も、実はまだ分かっていません。出血熱だったのか、天然痘だったのか、候補は挙がっているものの決着はついていない。つまり「43人はキプリアヌスの疫病の犠牲者か」という問いは、「そもそもキプリアヌスの疫病とは何だったのか」という、もうひとつの未解決問題の上に乗っているのです。
手がかりはこれから増えます。現在、骨のDNA解析が進行中です。結果が出れば、この人たちが地元ムルサの住民だったのか、それとも帝国各地から集められてきたローマ兵だったのかが判定できる見込みだといいます。もし帝国のあちこちの出身者が混ざっていれば話はまた変わってきますし、地元民ばかりなら「街を襲った災厄」の像がより濃くなります。
2008年に地面から出た骨が、2026年になってようやく語り始めた。発掘と、骨を読む研究とは、まったく別の時間で動く作業なのだということも、この話はよく示しています。答え合わせは、DNAの結果待ちです。
出典
学会発表:Mario Novak「Lay me down to rest: Bioarchaeology of a mass burial from Colonia Aelia Mursa (Osijek, eastern Croatia)」第25回ヨーロッパ古病理学会年次大会(ベルリン、2026年8月6日)※査読論文としては未発表
https://cfp.dainst.org/25th-european-ppa-meeting/talk/ZYNTXQ/
解説記事(英語):Live Science「’They basically used these dried-up wells just to throw people in’: 43 skeletons found in Roman-era well may be evidence of deadly plague」(Kristina Killgrove、2026年8月13日)
https://www.livescience.com/archaeology/romans/they-basically-used-these-dried-up-wells-just-to-throw-people-in-43-skeletons-found-in-roman-era-well-may-be-evidence-of-deadly-plague


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