交通事故の症例に似ていた中世の人骨——正体は攻城兵器の石だった

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骨折が160か所以上。そのほとんどが頭蓋骨と肋骨に集中している。骨を調べた研究者が最初に思い浮かべたのは、中世の戦い方ではなく、現代の交通事故でした。

この人骨が掘り出されたのは1997年、スコットランドのスターリング城です。城の礼拝堂の下から見つかった複数の遺骨のひとつで、「Skeleton 150」と呼ばれています。亡くなったのは22〜34歳の男性。放射性炭素による年代測定では、スコットランド独立戦争(1296〜1357年)の時期に重なります。

この骨を詳しく調べたのが、イギリス・ブラッドフォード大学の生物考古学者(=昔の人の骨から暮らしや死因を読み解く研究者)ジョー・バックベリー氏。結果は2026年8月、ベルリンで開かれた第25回ヨーロッパ古病理学会大会で発表されました。

現代の交通外傷に似た中世の骨

バックベリー氏が骨の折れ方を似た症例と突き合わせたとき、いちばん近かったのは自動車事故と、列車にはねられた人のケースでした。氏の表現では、後ろから非常に速く動く何かにぶつかられたように見える、とのことです。

ここで手が止まります。1300年前後のスコットランドに、自動車も列車もありません。では、その時代に「大きくて、ものすごい速さで動くもの」とは何だったのか。

手がかりは、骨に「無いもの」のほうにもありました。中世の戦死者の骨には、剣による切り傷や、刺し傷が残っているのがふつうです。ところがこの男性の骨には、そうした白兵戦(=武器を持って直接切り結ぶ戦い)の痕跡がありません。あるのは押しつぶされたような、広い面で受けた鈍い衝撃の跡ばかりでした。戦場で人と斬り合って死んだ人の骨ではない、ということになります。

1304年、スターリング城で起きていたこと

年代と場所を重ねると、候補は絞られてきます。

1304年、スターリング城はスコットランド独立運動の最後の拠点でした。1298年のフォルカークの戦いでウィリアム・ウォレスが敗れたあと、イングランド王エドワード1世は6年をかけてスコットランドをほぼ手中に収めます。ウォレスは追われる身で潜伏中。貴族たちは所領を返してもらう代わりに次々と降伏していました。抵抗が残っていたのは、この城だけだったのです。

守っていたのは城代(じょうだい=城を預かる責任者)のサー・ウィリアム・オリファントと、25人ほどの兵。対するエドワードは、教会の屋根から鉛をはがして集めさせ、グラスゴーの鉄と大きな石を運び込ませ、イングランド王国がそれまでに集めたなかでも最大級とされる攻城兵器の陣を敷きました。13基のカタパルトとトレビュシェット(投石機)が、昼も夜も城に石を投げ込み続けます。

それでも城は3か月持ちこたえました。

もうひとつ、埋葬のされ方も気になる点でした。この時代、遺体は城壁の外に葬るのがふつうです。ところが複数の遺骨は、城の礼拝堂の内側に埋められていました。外に出て埋葬する余裕がなかった状況——つまり、城が包囲されているあいだの死者ではないか。バックベリー氏はそう考えました。

投石機の石という答え

トレビュシェットは、重りを落とす力でアームを振り上げ、先端の投げ縄から石を放つ仕組みの投石機です。人力で引っ張るのではなく重力を使うぶん、はるかに重い石を、はるかに速く飛ばせます。石は城壁を壊すために撃つもので、城壁に届く速度で飛んできます。

骨の折れ方をほかの記録された症例と比べていった結果、バックベリー氏がたどりついたのは、大きな石が右肩と後頭部を強く打ち、そのまま地面に押しつけた、という筋書きでした。衝撃を受けた面がとても広く、破壊の規模が大きい——氏はそう説明しています。

つまり、現代の交通事故そっくりの骨折をつくったのは、700年前の攻城兵器だった、というわけです。バックベリー氏は今回の遺骨を、考古学の記録のなかで投石機による外傷が確認された初めての例だと位置づけています。研究に関わっていない立場から、ヴィリニュス大学(リトアニア)の法医骨学者ルーカス・ヴァルテンベルガー氏も、短い時間に高速・高エネルギーの衝撃を受けたように見える、として証拠は説得力があるとコメントしています。

骨折の規模からすると、死は瞬間的だっただろう——バックベリー氏はそう述べています。

降伏を認めなかった王と、試されなかったはずの兵器

1304年のスターリング城には、もうひとつ有名な話が残っています。

3か月の砲撃に耐えたオリファントでしたが、城の外で新しい兵器が組み上がっていくのを見て、ついに降伏を申し出ます。大工の親方5人と職人50人が、巨大な梁とウインチと重りを組み上げてつくっていたのは、記録に残るかぎり最大の木製トレビュシェット。「ウォー・ウルフ(War Wolf、戦の狼)」と名づけられた機械でした。300ポンド(約136kg)を超える石を放てたと伝えられ、19世紀にまとめられた年代記の記述では、城壁を布に矢を通すように貫いたとされています。

ところがエドワードは、その降伏を受け入れませんでした。中世史家マイケル・プレストウィッチによるエドワード1世の伝記(1997年)では、王は新しい機械の威力を自分の目で確かめたがり、試し撃ちが済むまで誰ひとり城に出入りさせなかった、と記されています。宮廷の女性たちが見物できるよう桟敷まで用意させたという話も伝わっており、これは軍事上の必要というより、力を見せつけるための政治的な演出だったと考えられています。

では、Skeleton 150の男性を殺したのはウォー・ウルフだったのか。そこは分かりません。バックベリー氏の見立ては「エドワードの投石機のいずれかによる可能性が高い」というところまでで、記録破りのあの機械なのか、それ以前から撃ち続けていた13基のうちの1基なのかは特定できていません。

ひとつ確かなのは、この男性が例外的に運が悪かったということです。攻城兵器は城壁を壊して降伏させるか、味方を城内に入れるために使うもので、狙いの精度も高くありません。的は城であって、人ではなかった——バックベリー氏はそう指摘しています。

受け止めるうえでの留意点

いくつか、慎重に見ておきたい点があります。

まず、これは学会での発表であって、査読を経た論文はまだ出ていません。「投石機による外傷として初めて確認された」という位置づけも、現時点ではバックベリー氏の主張です。今後、論文として公表され、他の研究者の検証を受ける段階が残っています。

次に、遺骨が見つかったのは1997年で、発表は2026年。新しく掘り出された人骨ではなく、およそ30年前に出土していたものを、あらためて詳しく調べ直した結果です。

年代についても、放射性炭素による測定が示すのは独立戦争の時期という幅であって、1304年の攻城戦とピンポイントで結びついているわけではありません。礼拝堂の内側という埋葬の状況や、白兵戦の傷が無いことを合わせて、包囲戦での死とみるのが自然だ、という組み立てです。

それでも、700年前に何が起きたのかを、骨の折れ方だけからここまで絞り込めるというのは、なかなかないことだと思います。文字の記録に残るのは王や城の名前で、そこで死んだ一人ひとりが最後にどうなったかは、ふつう分かりません。この男性については、どちらの方向から、どれくらいの速さで何が来たのかまで、骨のほうが語ってくれた——ということになります。

出典

報道記事(Smithsonian Magazine・2026年8月14日、Meilan Solly):A Medieval Man’s Injuries Reminded One Archaeologist of Modern-Day Car Crash Victims. They Turned Out to Be the Work of an English Trebuchet

報道記事(Science・Andrew Curry):Shattered skeleton in Scottish castle is first confirmed death from trebuchet

発表の場(第25回ヨーロッパ古病理学会大会・2026年8月3〜7日、ベルリン/ドイツ考古学研究所):The 25th European PPA Meeting

1304年の攻城戦とウォー・ウルフについて(Historic Environment Scotland・James Macivor):The War Wolf at Stirling Castle

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