2,500年前の像が無傷で残った理由は、ローマ人が「道に敷いた」から

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トルコ西部のサルディス遺跡から、高さ2.2メートルの大理石像が出ました。若い男性の立像で、右手に果実らしきものを持っています。二つに割れていて、足先といくつかの破片は欠けたままです。

制作されたのは紀元前470〜450年ごろ。つまり、およそ2,500年前です。トルコ文化観光省が発掘の成果として2026年8月4日に公表しました。

妙なのは、その状態です。割れてはいるものの、顔立ちも、手の甲に浮いた血管も、衣の細かいひだも、はっきり残っている。2,500年ぶんの雨風にさらされたにしては、あまりにもきれいすぎます。

コインを生んだ王国の都

サルディス(サルデスとも表記されます)は、いまのトルコ西部マニサ県サリフリにある古代都市の跡です。エーゲ海と内陸のアナトリア高原を結ぶ位置にあり、鉄器時代にはリディア王国の都でした。

リディアの名前が世界史に残っているのは、金属を打って作る貨幣、いわゆるコインをはじめて世に出した国とされているからです。王朝の最後の王クロイソスは、その富ぶりが後世に語り継がれるほどでした。ただし、その繁栄は紀元前546年、ペルシアのキュロス2世にサルディスを落とされたところで終わります。

今回の像が彫られたのは、そのあとの時期にあたります。当時のサルディスは、アケメネス朝ペルシアの西方の州都として機能していました。都市はその後もギリシャ勢力、セレウコス朝、ローマへと手を替え、初期キリスト教の拠点にもなり、ユダヤ人共同体も抱えました。衰えはじめるのは6世紀ごろで、完全に人がいなくなるのは15世紀初頭です。

この遺跡での発掘は1910〜1914年に一度入っており、1958年からは長期の調査が続いています。合わせるとおよそ120年。それだけ掘られてきた場所ですが、この規模の彫像が出たのは今回がはじめてです。2025年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

舗石の下、うつ伏せの発見

像が見つかったのは、彫像が本来置かれていたはずの場所ではありませんでした。市街の入口にあたる、ローマ時代の列柱通り——道の両側に柱が並ぶ、あの様式の街路です——その舗装の一部として、地面に組み込まれていました。

しかもうつ伏せで。顔と衣の彫りが下を向く形で敷かれていたのです。

彫刻としての扱いはひどいものです。二つに割られ、道の材料にされ、上を人と荷車が通る。けれど、この扱いこそが像を守りました。彫りの細かい面が地面側を向いたことで、そこだけが風化から切り離されたからです。トルコ文化観光省も、うつ伏せの配置が顔立ちと細部を長く保つことにつながった、と説明しています。

古代の建材を後の時代に再利用することを「スポリア」と呼びます。石材が貴重で、手近に転がっている過去の建造物や彫像が、そのまま次の建物の部材になる。ローマ時代の各地でごく普通に行われていたことです。像の中身が何であるかに関心を払わず、ただ「使える石」として扱った——その無頓着さが、結果として2,500年ぶんの時間を無傷で越えさせたことになります。

古風な髪と、新しい手

状態がいいぶん、様式の細かいところまで見られます。そしてそこが、研究者を面食らわせている部分でもあります。

まっすぐ立った姿勢と長い髪は、紀元前6世紀の古い彫刻の伝統をなぞったものです。一方で、顔立ちや、血管まで彫り込まれた手の造形は、紀元前5世紀前半の同時代の作風に近い。つまり、ひとつの像のなかで、古い作法と新しい作法が同居しています。

サルディス発掘調査団の現場責任者ニコラス・カヒル氏は、時代遅れの髪型や衣装と、新しい手・顔・首のひねりの組み合わせが際立っている、と述べています。そのうえで、この彫刻家はギリシャやイタリアで何が起きているかを知っていたのに、その人物を「先祖が表されてきたやり方で」表すことを選んだのだ、と見ています。技術が追いついていなかったのではなく、あえて古い型を採ったのではないか、という読み方です。

衣装も一筋縄ではいきません。厚手のヒマティオン(外套)の下に薄いキトン(貫頭衣)、さらにその下に横縞の入った衣。それぞれはギリシャの衣服の名前ですが、この組み合わせは、同時期のギリシャでもアナトリアでも、似た彫像に例がないとされています。文化観光省は、ここにリディアの地域性が出ていると見ています。

サルディスで長年発掘に携わってきた考古学者ヘクター・ウィリアムズ氏は、この数十年でトルコ西部から出た彫刻のなかでも際立って珍しいものだと評したうえで、後期アルカイック期から古典期初頭(およそ紀元前525〜460年)を扱う研究者たちが、本格的な研究と刊行を待っている、と話しています。

まだ決まっていないこと

華やかな発見ですが、確定していない部分がかなり残っています。

まず、この像が誰なのかは分かっていません。神への奉納像なのか、実在の人物の姿なのか、そこも決まっていない。持っている果実はマルメロと見られていますが、これも「おそらく」の段階です。神に捧げるための供物ではないか、という読み方が示されていますが、確定した解釈ではありません。

いつ舗石に転用されたのかも、はっきりしません。この一帯がローマの支配下に入ったのは紀元前133年ですが、それは支配の開始年であって、像が埋められた年ではありません。列柱通りの舗装がいつ敷かれたかによって、像が地面に伏せられた時期は数百年単位で動きます。二つに割れたのが人の手によるものか、転用の過程で偶然そうなったのかについても、公表された情報からは断定できません。

そして、学術論文はまだ出ていません。現時点の情報は、トルコ文化観光省の発表と、発掘に関わる研究者への取材にもとづくものです。専門家による本格的な検討はこれからで、ウィリアムズ氏の言う「刊行を待つ」段階にあります。

今後の作業としては、表面を覆っている石灰質の硬い層を落としながら、彩色の痕跡を探すことが挙げられています。ギリシャ・ローマの大理石像は、もともと鮮やかに彩色されていたことが分かっており、顔料の粒が残っていれば、当時どんな色で立っていたのかを推定できます。うつ伏せで守られた面に、それが残っている可能性はあります。

調査と保存処理を終えたあと、像はマニサ博物館で公開される予定です。

出典・もっと知りたい人へ

発見の一次情報はトルコ共和国文化観光省の発表で、研究者のコメントを含む詳細は以下の記事で確認できます。

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